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日本語調査
『ABC殺人事件』編

文:W.KOHICHI


【前書き】
日本語は非常に表現力に富んだ言語だそうです。普段から日本語で思考する日本人である私には、今一つ実感が湧きませんが、これを調査してみたいと思います。
そのためにはどうすればいいのか? 私は一つの方法として、海外の作品を翻訳したものを比較して、その表現の力を見る事を試みました。
今回はアガサ・クリスティーの作品『ABC殺人事件』の数々の翻訳を引用して、それを為します。
なお、引用する都合上、いわゆる作品のネタバレを含みます。『ABC殺人事件』を未読の方は見ないほうがいいでしょう。
また、素人の書く雑文など見ていられない方も、ここで引き返したほうがいいでしょう。


読みますか?

読む   読まない

































さて、まずは、翻訳とは察するに、その訳者の力量だけでなく、なんらかの制約(時間がなかった、金がなかった、等等)が付く事を無視するわけにはいかないという事を分かる必要があるでしょう。
例えばこの三つの同じ位置に据えられた一文を比べるだけでもそれは明らかです。

 六ヵ月ばかり滞在の予定で、わたしが南アメリカの牧場から、故国イギリスに帰ってきたのは、一九三五年六月のことであった。南アメリカの牧場経営者たちにとっては、やりにくい時代であった。ほかの人たちと同様、わたしたちも世界的不況になやまされていた。イギリスでいろいろと片づけなければならない仕事があって、それも自分で交渉しなければうまくいかないと思ったのだ。妻は牧場の管理にのこしてきた。
(中村能三訳『ABC殺人事件』新潮社)
 一九三五年六月のこと、わたしは六か月ばかり滞在する予定で、南米にある牧場から故国イギリスに帰ってきた。南米での暮らしは、らくではなかった。そのころはだれでもそうだったが、わたしたちも世界的な不況のあおりをうけて苦しんでいた、おかげで、イギリスでいろいろとかたづけねばならない用事ができ、しかもそれは他人まかせにはできない。留守中の牧場の管理のため、妻ひとりを現地にのこしての帰国であった。
(深町眞理子訳『ABC殺人事件』偕成社)
 数年ぶりに南アメリカからイギリスにもどったわたしは、ロンドンのあるアパートに旧友のポワロをたずねてみた。ひさしぶりに会った親友のエルキュール・ポワロは、ずいぶん若く見えた。じまんの口ひげも黒ぐろと光っている。
(各務三郎訳『ABC殺人事件』文研出版)

もうこの時点で違いが出ていますが、この中で明らかに各務三郎訳だけがなにかの束縛を受けています。それがなんだったのかは分かりませんが。
今回の私のやるべき事は、日本語の調査であって個人には関わりない事ですからその追求は致しません。

では本題、テーマである文の比較にいきます。
と言ってもやる事は単純でして、翻訳文を幾つか並べてその違いを観賞するだけです。その意味では簡単な仕事ですね。
私の苦労はどの文を引用すればいいか考える事でしょうか。それさえこなせばあとは細かい文字に目を遣って、それをキーボードから入力するだけです。
ですが、その方がこの文を読まれている皆さんにも分かりやすいかと思います。
それではまず、このあたりはどうでしょうか?

「ヘイスティングズ、あなたは毎度のことながら、人を疑わぬ美しい心をお持ちですな。歳月、なれを変え得ず! あなたは何か一つのことをかぎつけると、たちどころにそれを解きあかしてみせる、自分ではすこしもそうと気がつかないでね!」
 私は目をまんまるにして、彼を見つめた。何が何やらさっぱりわからない。
 彼は黙って寝室に入ってゆくと、一本の壜を手にして戻ってきて、それを私に渡した。それでもまだ私は狐につままれたようだった。
 壜にはこう書いてあった。

 ルヴィヴィ
 毛髪を自然な色調に。ルヴィヴィは染料とちがいます。灰色、栗色、金茶色、褐色、黒の五種類。

「なあんだ」と私は叫んだ。「髪を染めていたんですね!」
(田村隆一訳『ABC殺人事件』早川書房)
 「あいかわらず、ヘイスティングズ、きみは、人を疑わない、美しい心を持っているんだね。年月も、きみのその心を変えないんだね! きみは、自分では、そんなことをしているとは気がつかずに、一つの真実を見ると、ほとんど同時に、その解答を口にするんだね!」
 わたしは、すっかりとほうにくれて、かれを見つめた。
 ひと言もいわずに、かれは、寝室へ足を運んで行ったと思うと、瓶を一つ、手にしてもどって来て、わたしに渡した。
 わたしは、なんのことやらわからないまま、その瓶を受けとった。
 瓶には、こう書いてあった。

 ルヴィヴィ−−毛髪に自然の色合を持ち来たす。ルヴィヴィは、染料にあらず。灰色、栗色、赤黄色、褐色、黒色の、五種の色調に生かす。

 「ポアロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「きみは、髪を染めているんだね!」
(能島武文訳『ABC殺人事件』角川書店)
「ヘイスティングズ、あいかわらずきみは、人をうたがわない、美しい心をもっていますね。いくら歳月がたっても、すこしもかわらない。なにかひとつの事実をつかむと、その場ですぐに、それへの解答をだしてしまう−−自分でもそうしているとは気づかずに。」
 わたしはめんくらってポワロを見つめた。
 なにもいわずに、彼は寝室へはいってゆくと、やがて、びんをひとつ手にしてもどってき、それをわたしてよこした。
 さっぱろわけがわからぬまま、わたしはそれをうけとった。
 びんにはこう書いてあった−−。
〈ルヴィヴィ−−毛髪の自然な色をとりもどすために。ルヴィヴィは白髪染めではありません。色は五色−−銀灰色、栗色、金褐色、褐色、黒色〉
「なあんだ。それじゃ、髪を染めてるんですか!」
(深町眞理子訳『ABC殺人事件』偕成社)

どんな文でもそうでしょうが、翻訳者も時代の影響を受けている事は疑いありません。時代の違いがあれば訳にも違いが出て当然、というよりはむしろ自然な事かと。
例えば、こう。

「なんたることだ、ポアロ!」私は叫んだ。「この気ちがいは、またぞろ別の犯罪をやらかそうというのだろうか?」
(田村隆一訳『ABC殺人事件』早川書房)
「おどろきましたね、ポワロ」わたしは思わず叫んだ。「するとこの悪党めは、またぞろ犯罪をくわだててるということなんですか?」
(深町眞理子訳『ABC殺人事件』偕成社)

邪推かもしれませんが、深町眞理子訳の方は、「気ちがい」という単語を回避しているのではないでしょうか。それが悪いかどうかはまだ分かりませんが、これも束縛の一種なのではないでしょうか? 訳文の出た時期はそんなに変わらないのですが。

物語の筋書きはともかく、登場人物(人物だけでなくモノその他も含む)をどんな形で登場させるかは翻訳者の意のままなのですから。主人公がエルキュール・ポアロか、エルキュール・ポワロかといった些細な事から、口調は穏やかなのか激しいのかといった読者に大きなイメージを植え付ける事まで。

 ポワロはわたしを見て(たぶん、わたしはあまり彼の話に注意していなかったのだろう)、笑い、また口のなかで歌いはじめた。
「あの娘は、まさに天使だね。エデンから、スエーデンを通ってきた……」
「ポワロ、くだらんことを言うものじゃないよ」とわたしは言った。
(中村能三訳『ABC殺人事件』新潮社)
 そこでポワロはちらっとわたしを見(たぶんわたしが、うわのそらであいづちを打っていたせいだろう)、それから笑って、また鼻歌をうたいはじめた。
「彼女は天使、ほんとの天使、エデンからスウェーデン経由できた娘……」
「ポワロ、いいかげんにしてください!」わたしはどなった。
(深町眞理子訳『ABC殺人事件』偕成社)
 かれは、わたしに目を向けたが、(たぶん、わたしがあまりよく注意を払っていなかったのだろう)声をたてて笑うと、また鼻唄をうたいはじめた。
 「あの娘は、天使だ。ちがうかね? エデンから、スウェーデン経由で来たやつさ……」
 「ポアロ」と、わたしはいった。「くたばっちまえ!」
(能島武文訳『ABC殺人事件』角川書店)

上3つの文は最後の一行に、随分違いがあるようですね。

異文化への理解度の差も見逃せません。

 クラークはしずかに言った。
「あなたがスポーツ好きでないことは、実にかんたんにわかりますな、警部さん」
 クロームは相手を見つめた。
「それはまたどういうことです、クラークさん?」
「これは、これは。次の水曜日には、ドンカスターで、セント・レジャーの競馬があることをご存じないのですか?」
(田村隆一訳『ABC殺人事件』早川書房)
 クラークは、落ちつき払って、いった。
 「あなたが競技好きの人じゃないということは、すぐわかりますね、警部さん」
 クロームは、じろじろと相手を見つめて、
 「どういうことです、クラークさん?」
 「おやおや、つぎの水曜日には、ドンカスターで、セント・レジャーの競馬があるということを、ご存じないのですか?」
(能島武文訳『ABC殺人事件』角川書店)
 クラークはしずかに言った。
「あなたが狩猟家でないことは、すぐわかりますね、警部」
 クロームは相手を見つめた。
「それはどういう意味ですか、ミスタ・クラーク」
「おやおや、このつぎの水曜日には、ドンカスターでセイント・リージャーの競馬があるのを忘れているんですか」
(中村能三訳『ABC殺人事件』新潮社)

要は競馬のレースがあるという事なのですが、スポーツ、狩猟、競技と訳は分かれていることも興味深いです。またこの3つの訳文からは、競馬がイギリスでメジャーなものだということが推測出来るでしょう。

では最後に、詰めの部分の訳文の差をお楽しみ下さい。

 クラークは、しばらくそのまま坐っていたが、やがて言った。
「赤、奇数、負けだ!−−あなたの勝ちですね、ムッシュー・ポアロ! しかし、やってみるだけの値打ちはあったんだ!」
 あっという間もなく、彼はポケットから小さな自動拳銃をとり出すと、頭にあてた。
 私は叫び声をあげると、轟音のとどろきを予期して、思わず身体をすくめてしまった。
 しかし銃声はしなかった−−撃鉄が空しく鳴っただけだった。
 クラークはおどろいて拳銃をにらみつけると、ののしり声をあげた。
「だめですよ、ミスタ・クラーク」と、ポアロが言った。「もうお気づきでしょうが、今日、私は召使をあたらしく雇ったのです−−私の友人で−−スリの達人をね。あなたのポケットから拳銃をとって、弾丸をぬきとってから、あなたに気づかれぬように、またもとへ戻しておいたのですよ」
「この、生意気なちんちくりんの外国人め!」と、怒りに燃えてクラークが叫んだ。
「そうです、いかにもそのとおりでしょう、あなたの気持はね。だめですよ、ミスタ・クラーク、あなたは楽になんか死ねないんですよ。あなたはカスト氏に、あやうく溺死をまぬがれた話をしましたね。その意味がどういうことか、おわかりになったでしょう−−つまりね、あなたが、もう一つの宿命をたどるように生まれついているということですよ」
「貴様−−」
 それきり言葉が出てこなかった。彼の顔は鉛色にかわり、威嚇するように拳固をにぎりしめているだけだ。
 となりの部屋から、ロンドン警視庁の刑事が二人、姿をあらわした。その一人はクロームだった。彼はすすみ出て、昔からのきまり文句を言った。
「あなたの言うことは、すべて証拠として採用されることをここに通告します」
「いや、もう言いたいだけのことは言いましたよ」ポアロはそう言うと、クラークにむかって、こうつけたした。「あなたは、島国的優越感をかなりお持ちあわせのようだが、私からみると、あなたの犯罪はイギリス的でもなければ、フェアでもないし−−それにスポーツ的でもない−−」
(田村隆一訳『ABC殺人事件』早川書房)
 クラークは、しばらく、そのまますわっていたが、やがていった。
 「赤、奇数、負けだ!−−あなたの勝ちだ、ポアロさん! しかし、やってみるだけの値打ちはあったんです!」
 ほとんど信じられないほどの速さで、かれは、ポケットから小さな自動拳銃を取り出すと、頭にあてた。
 わたしは、叫び声をあげると、思わず体をすくめて、轟音のとどろくのを待った。
 しかし、銃声はしなかった−−撃鉄が、いたずらに、かちっと鳴っただけだった。
 「だめですよ、クラークさん」と、ポアロがいった。「気がついておいでだったかと思いますが、きょう、わたしは、新しい召使を雇ったのです−−わたしの友人で−−腕ききのこそどろをね。かれが、あなたのポケットからピストルを取り出して、弾丸を抜き取ってから、あなたがそれと気づかないうちに、元へもどしておいたのですよ」
 「この言語道断な、生意気な、ちびの外国人め!」と、怒りのためにまっ赤になって、クラークは叫んだ。
 「そう、そう、それが、あなたの胸にあることなんですね。いや、クラークさん、あなたは、そんな楽な死に方はできない人ですよ。あなたはカスト氏に、あやうく溺死しそうになった話をしましたね。あれはどういうことかおわかりでしょう−−つまりね、あなたがもう一つの運命に生まれ変わったということですよ」
 「貴様−−」
 それだけしかいえなかった。顔は、土気色だった。威嚇するように、拳固を握りしめていた。
 スコットランド・ヤードの刑事が二人、隣の部屋からあらわれた。そのうちの一人は、クロームだった。かれは、進み出て、昔ながらのきまり文句をいった。「あなたのいうことは、すべて証拠とされることを、ここに警告します」
 「いいたいだけのことは、この人は、もう十分にいいましたよ」といってから、ポアロは、クラークに向かってつけ足していった。「あなたは、非常に島国的優越感をお持ちのようだが、わたしにいわせれば、あなたの犯罪は、全然、イギリス的犯罪でもなければ−−公明でもなく−−スポーティングでもない−−」
(能島武文訳『ABC殺人事件』角川書店)
 クラークは、ちょっとのあいだ、じっと身動きもせずにいたが、やがて言った。
「赤、奇数、失敗! あなたの勝ちだ、ムシュー・ポワロ。だが、これはやってみるだけの値うちはあったんですよ」
 信じられないほどの速さで、彼はポケットから自動拳銃をとりだすと、それを自分の頭にあてた。
 わたしは叫び声をあげ、思わずからだをたじろがせて、銃声を待った。
 ところが、銃声はひびかなかった−−打ち金がいたずらにカチリと鳴っただけだった。
 クラークは驚いてピストルを見つめ、悪態をついた。
「だめですよ、ミスタ・クラーク」とポワロが言った。「お気づきかもしれないが、今日は新しい召使を雇っています−−わたしの友人でしてね−−すりの名人なのですよ。あなたのポケットからピストルを失敬して、弾丸を抜きとり、またもとに返しておいたのです−−あなたに気づかれないようにね」
「なんとも無礼千万なやつだ、きさまのような外国人は……」とクラークは怒りに真赤になって言った。
「そう、そのとおりです、あなたの気持はね。だが、いけませんよ、ミスタ・クラーク、あなたにはそんな楽な死に方はさせられない。あなたはミスタ・カストに、すんでのところで溺れるのを助かったことがあると言いましたね。その意味はおわかりでしょう−−ほかの運命をたどるように生まれついているのですよ」
「きさまは−−」
 それきり言葉がつづかなかった。顔はまっさおだった。いまにも跳びかかろうとするように、拳がにぎりしめられた。
 隣の部屋から、警視庁の刑事が二人、姿をあらわした。一人はクロームであった。彼はすすみでて、昔ながらの型通りの文句を言った。「警告しておきますが、これから後のあなたの言葉は、証拠として取りあげられます」
「もう不足のないだけは言いましたよ」とポワロは言ってから、こんどはクラークにむかって言いそえた。「あなたは島国的優越感でいっぱいだが、わたしからみると、あなたの犯罪はぜんぜんイギリス的じゃない−−正々堂々たるものじゃない−−スポーツ的じゃない−−」
(中村能三訳『ABC殺人事件』新潮社)
 ちょっとのあいだ、クラークは身じろぎもせずすわっていたが、ややあっていった−−。
「赤、奇数、負けた! −−あんたの勝ちだ、ポワロさん。しかしね、これは、いちかばちか勝負にでるだけの値打ちはあったんだ!」
 目にもとまらぬ早さで、彼はポケットから小さな自動拳銃をひきぬくと、こめかみにあてがった。
 わたしは思わずあっと叫び、それから知らずしらず身をすくめて、銃声が鳴りわたるのを待った。
 けれどもそれは聞こえてこなかった−−撃鉄がむなしくかちっと鳴っただけだった。
 クラークはおどろいて手のなかの拳銃を見つめ、それから悪態をついた。
「だめですよ、クラークさん。」ポワロがいった。「たぶんお気づきでしょうが、きょうわが家には新顔の従僕がいましてね。わたしの友人で、ベテランのスリです。あなたのポケットからピストルを失敬して、弾をぬきとり、またポケットにもどしておいたのは、彼の早わざです−−あなたはまるきり知らぬが仏でしたがね。」
「このけしからん、ちょこざいなチビの外人野郎め!」憤怒に顔をむらさき色にして、クラークはどなった。
「ええ、ええ、たしかに、あなたはそういうお気持ちでしょう。でもいけませんよ、クラークさん、そんなにらくに死なせるわけにはいきません。あなたはカスト氏にいいましたね、すんでのところで溺死をまぬがれたことがある、と。それがなにを意味しているかわかりますか? つまりあなたは、そのとき以来、べつの運命を生きるように宿命づけられているんです。」
「きさまは−−」
 それきりことばはつづかなかった。クラークの顔は鉛色。両のこぶしが、威嚇的ににぎりしめられているだけだった。
 ロンドン警視庁のふたりの刑事が、隣室から姿をあらわした。ひとりはクロームだった。すすみでた彼は、むかしからの決まり文句をとなえた−−。
「役目がら警告しておきますが、今後あなたの口にすることは、なにによらず証拠としてもちいられることがありますから、さようおこころえください。」
「いや、もうじゅうぶんにしゃべってくれましたよ。」ポワロはいった。それからクラークにむかって、つけくわえた。「あなたは島国的優越感をいやというほどおもちのようだが、わたしにいわせると、あなたの犯罪は、まったくイギリス人の風上にもおけませんな。フェアでもなければ、正々堂々ともしていない−−」
(深町眞理子訳『ABC殺人事件』偕成社)

こんなところですな。
本を読みながらタイピングする事は予測以上に疲れました。目とか首とかが。
では、これにてお終いとさせていただきます。


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